四章

 

 

四章

 

「アマヤ」

     

 

 だれかが体を揺らしている気がする。

 

 目が覚めた。ぼくは長椅子に横たえられていた。

 長い夢を見ていたようだった。どんな夢だったかは思い出せないけれど。

 

 体を持ち上げて、窓から外を眺める。地下ホームの看板を見つけた。電車は有明線の終着点、埠頭北駅で停車していた。

 車内にはすでにだれもいなかった。当然、アマヤの姿もなかった。

 リハビリのようにゆっくりと一歩ずつ、外へ、地上へと向かっていった。

 

 あかつき埠頭公園は、工場と大型トラックの列のそばにあり、昼間でも物々しい雰囲気に囲まれている。それが夜遅くであればなおさらだ。雨に打たれながら、自動で運ばれるコンテナが不気味だった。ぼくは傘をさした。

 できの悪い3Dゲームのフィールドのように、建物も人も少ない、がらんとした一帯を歩きながら、思い出す。

 

 ぼくたちの故郷で起きた災害のことは、もはや世間では話題にもならなかった。被災者はみんな死んでいなくなったし、その弔いもきちんと済ませたのだと言わんばかりだった。

 だとしたらぼくたちはいったいだれなんだろう。故郷をなくして、頼れる人もなくして、その愚痴を言う相手も見つからなかった。

 

 ぼくもアマヤも、大学の卒業が近づくにつれて、したくもないことばかりしなければいけなくなった。互いに少しずつ忙しくなり、しばらく会わないことも続いた。

 何度か連絡は取り合った。その度にアマヤは、自分の過去と、現在と、未来とを悔やみ、羨む、彼らしくない言葉を吐き、ひとつずつ重ねていった。

 アマヤが死んだのは、先月のできごとだった。彼が自死する前に書いた手紙で知った。その悲痛な文面は、彼の気が狂ったことをはっきりと表していた。

 

『故郷に帰った冬のことを、憶えているかい。ぼくはきっと感染してしまった。初めは、ありえたかもしれないぼくの人生の破片が、まるで現実のものであるかのようにぼくを苛んで怒鳴り立ててきたんだ。苦しかったよ。でも、それもいまでは終わった。全てが凪のように穏やかになった。いまのぼくにはもうこの世界に後悔なんてない。でも、じゃあずっと、このままの世界が続くということなんだろう? この世界は変えられないんだろう? そんなのはごめんだ』

 

 海に近いプロムナード。爛々と照る水平線の果ての光は、光源が何かはわからないけれど、やけに美しく見えて、目を離すことができなかった。

 アマヤと最後に会ったのもこの場所だった。ぼくたちの海の近い故郷に、この街は少し似ているんだ。

 

 ぼくは、ここで短い人生の終りを迎えに来た。

 涙が少しずつこぼれ始めた。

 

 だけど、何よりも耐え難かったのは、ぼくもアマヤのように、自分のなかから、後悔と呼べるものがなくなっていくように感じることだった。

 このひどい世界は、そうなるべくしてなっている。

 他の可能性なんてない。

 ぼくはなんの失敗もしていない。

 ぼくにはなんの責任もない。

 ただぼくの人生がひどいものだった。それだけの話だ。

 ぼくはそう思うようになっていた。

 きっと、ぼくも感染してしまったのだろう。

 

 遅かれ早かれ気が狂い始め、この世界にぼくを繋ぎとめるものがなくなったときに自分自身の意識を失うか、そうなる前にアマヤのように命を終わらせるか、どちらかだ。

 結末をいくらか早めるくらい、何も問題はない。だって、世界は変わらずひどいままなんだから。

 人生最後の景色を選ぼうとするのは贅沢だろうか、滑稽だろうか。

 最後のわがままだ。ぼくは、海沿いの歩道に渡った。

 

 景色がいやに懐かしかった。

 この海と建物の明かりは、いったいだれと見た景色だっただろうか。

 ぼくとアマヤと……。

 だれかが泣いていたはずだ。

 

 鉄柵に、傘もささず、もたれかかっている人の影があった。

 

「久しぶりだね」

 

 優しい声だ。

 アマヤだった。

 ぼくの方を見ようとはしない彼に、一歩近づいた。

 呼吸がうまくできない。

 言いたいことは山ほどあった。聞きたいことも同じくらいあった。なのに、何ひとつ思い浮かばなかった。

「ぼくは、後悔なんていらないと思っていた」

 アマヤが話し始めた。

「後悔なんてなんの役にも立たない、ただ苦しいだけのものだって思っていた。……でもそれは違ったんだ」

 アマヤは海を眺めながら続ける。

「いまの世界が、いまの自分が、幸せな形なんだったら、後悔はいらないのかもしれない。でも、世界も自分も、辛くて、苦しくて、ひどいものなんだったら、後悔は……そんな世界も自分も、間違っているんだって、ただ自分が犯した失敗のせいなんだって、こんな世界でなくちゃならない理由なんてどこにもないんだって、言い張るために必要なものなんだ」

 

 ぼくはなんとか言葉を絞り出す。

「でも……ぼくはもう、遅い。ぼくもおまえのように、後悔ができなくなった。ありえたかもしれない世界を想像することなんて、もうできない。ぼくはおまえに謝りたかった。遅くなってすまない。ぼくももう死ぬことにした」

 

 降り続ける雨はすべてが海に注がれ、同時に空を塗り潰すかのように、淀んだ水面が無数に反射の跡を生み出していた。空に星の気配はなかった。

 ぼくは傘を手放した。皮膚に浸透する一粒一粒がぼくを溶かしていくようだった。どうかこのまま、何もかも失わせてくれはしないか。

 

「……君は、いま何も後悔しているものはないと、言えるかい?」

 海へ向かう風が強く吹いた。アマヤの声をかき消してしまいそうだった。

 アマヤは後悔をするための想像力を奪われ、変わらない世界に生きる意味を失い、自殺という選択をしてしまった。

 やがてぼくもそうなってしまうだろう。

「ああ、この世界は、変わらないんだ……」

 

 アマヤが笑った。振り向いた。

「ありがとう」

 何を言っているんだ。やっぱりぼくは気が狂ったのか。なんでアマヤが礼を言うんだ。ぼくが言わせているのか? 違う、そんなことは望んでいない。けれど、声が出せなかった。涙が止まらなかった。

「いま、ここにぼくがいるってことは、君がぼくに後悔を抱いているからだろう? ありえたかもしれない、君が望むもうひとつの可能性に、このぼくを呼んでくれたってことは、君は、ぼくに生きていて欲しかったって、思ってくれているんだよ。君はまだ後悔をしている。だから……」

 アマヤがまだ生きているころ、ぼくによく見せた笑顔で、彼は言った。

「ありがとう」

 

 いまアマヤが話す言葉は、もはやぼくの記憶だけにしか、存在しない。信じ続けられる自信などなかった。

 それでも、むせび泣くぼくに、彼は呆れずにいてくれた。

 

 一呼吸して、アマヤがぼくの顔を見つめた。

 

「ぼくはもう死んでしまった。でも、まだ生きているかもしれない、ぼくたちの大切な人がいるだろう。この世界にとり残されたぼくたちにとって大切な存在……」

 

 そうだ、早見さんだ。ずっと忘れていた。いや、忘れていたわけではない。思い出さなかったんだ。

 

「二年前、故郷で会う約束をしたあと、早見さんからの連絡が途絶えた。その理由はわからない。彼女はもう生きていないかもしれない。でも、生きていたとしたら、救えるのは君しかいない」

 

 いまアマヤがぼくに告げる後悔、ぼくに託そうとしているもうひとつの可能性、それだけが世界を変える希望なのかもしれない。

 

「ぼくは、ひとつの可能性を夢見る。災害が起きたあの冬に、あるいは、早見さんが東京を離れたあの日に、ぼくらが故郷に帰ったあの冬に、君が早見さんに声をかけて……あの街から連れ出す世界を、夢見ている」

 ぼくはあのとき、この臨海のショッピングモールで、早見さんにひとつの願いを託された。

 そしてその願いに、可能性の欠片もない、ひどく現実的な選択肢しか返すことができなかった。

 ぼくは早見さんを救わなければいけなかった。

 身よりや所以がなにひとつなくても、早見さんが東京に残る可能性は、たしかにありえたんだ。

 ぼくが、その所以になることだってできたはずだ。

 

「死に行く街に、彼女は一人、取り残されている。ぼくたちは彼女を助けなければいけなかった。……ありえたかもしれないもうひとつの可能性を夢見ることは、ひらたく言えば情けない後悔は、救えたかもしれない一人を救うためになら、肯定されると思うんだ。もしいまも彼女が生きていたらだけど……それを、君に託したい。もう死んでしまったぼくにはできないことだ」

 アマヤの言葉はぼくの言葉なのか。それとも、アマヤの言葉なのか。

 

「それに、君は早見さんのことが好きだったんだろう。ぼくも彼女のことが好きだった」

 アマヤは優しく微笑んだ。

 ああ……これは、アマヤの言葉だ。

 

「ぼくらはいつだって失敗ばかりだ。選択を間違え続ける。あらゆる可能性がぼくらの過去と未来を覆い尽くそうとする。だけど、それこそが世界を変えるための救いなんだ。その途中では、どの世界が本当の世界なのか迷ってしまうこともあるかもしれない。でも、ここにいるぼくらがどうしようもなく苦しいのであれば、やり場のないくらい悲しいのであれば、間違えたという痛みは、疑いようもなく、正しい世界のあかしなんだ」

 無理やりな強がりのようだった。それでも、希望の言葉に聞こえた。

 

「それじゃあ、頼んだよ」

 数限りない後悔がぼくの首を締め始めた。

 ああ、ぼくはまだ生きているのか。もしそうだとしたら、死との合間に一言だけでいい。アマヤに伝えたかった。

 

「ありがとう」

 

 それ以外に何も伝えることができないまま、アマヤは姿を消した。初めからそこにはだれもいなかったかのように、ぼくの視界からいなくなった。

 

 アマヤがいた場所まで歩み寄る。柵に手を置いて、顔を上げた。

 いろんな建物のいろんな明かりを反射する海の色は、遠いあの日に見たように、綺麗だった。

 

   
 

 
 


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