一章
「雪の東京駅」
足元を凍らせる雪は、夜に灯る街の明かりによく似合っていて、ずっとこのままなんじゃないか、そう思えるくらいだった。
大雪、吹雪、どちらにしても、都会にしては行く先もなく、ひどく見通しのきかない東京駅で、ぼくは一人立ち尽くしていた。行き交う人や車はなく、個人タクシーすらもほとんど見当たらなかった。
いつからだろうか。ぼんやりとまどろむことが癖になり始めていた。どうにか自分自身を取り戻し、まだ降り続く雪に濡れないように、すでに営業を終えた商業施設入口の屋根の下で、鞄から取り出した時刻表を開いた。大学からもらった卒業式の案内が、三つ折りになってしおりの役目を果たしていた。
どこへ行こうか。
海が見たい。海の近いぼくの故郷によく似た景色。臨海の街に行きたかった。
すぐそばの階段から地下ヘと潜り、造りかけの通路を進んでいく。
安っぽい標識に案内されるがまま鬱蒼とした地下街を抜けると、新設されたばかりのわりにやけに寂れた地下鉄有明線のエリアに迎えられた。自動改札を抜けて、ホームへ向かう。
ちょうど停車していた車両に乗り込んだ。埠頭北駅行きの電車は乗り換えなしで臨海のモールまで連れて行ってくれる。
車内はがらがらに空いていて、ぽつぽつと携帯端末を眺める人がいるくらいだった。
発車までの間、かすむ眼の悲鳴は無視して時刻表をめくった。到着するころには日をまたぐようだった。
あのショッピングモールに行くのはいつ以来だろうか。こんな夜中に、いまさらあの場所に行ったとして何になるのか分からなかった。それでも他に、居たい場所も、行きたい場所もぼくにはなかった。
思い出す臨海のモールの景色。ぼくは一人じゃなかったはずだ。
大切な人たちが、すぐ隣にいた気がする。
ベルが鳴り、扉が閉まる。
直前に、リュックサックを背負った青年が飛び込んできた。小さく息を切らす彼は、軽い癖っ毛が目立つ頭から靴の先まで、全身が濡れそぼっていた。
ひどく視力の悪くなった目がなんとか捉えた彼の顔には、はっきりと見覚えがあった。
アマヤだ。
自分で自分の命を断った、ぼくの大切な友人。その懐かしい顔そのものだった。
そうだ、ぼくは、彼に謝らなければならなかった。
車両を移り奥へと、先頭へと向かう彼を追いかけるために、慌てて席を立った。
握力の衰えた手が時刻表を落としてしまう。
気にせずに走って追いかける。少ない乗客はだれもぼくを見ようとはしなかった。
連結部の扉の重さに舌打ちをしながら、急かすように力を込めた。
やっと開いた扉。空っぽの車両、アマヤはすでにその一番奥にまでたどり着いていた。
再び床を強く踏みしめ走りだそうとした。
途端に頭が、次に手足が痺れ始めた。
そういえばここ数週間、ろくにものを食べていなかった。水すらも飲むことを忘れていたような気がする。
ぼくはそのまま、車両に倒れこんでしまった。
胃が痙攣している。何か吐き出してしまいそうだった。
内容物のない胃は、矛盾に苦しむかのようにぼくの体内で激しく収縮を繰り返した。
涙が出そうだ。
なんとか堪えて、顔をあげた。アマヤはもういなかった。次の車両に移ったのだろうか。
アマヤがいた場所に、一人の後ろ姿が見えた。
コートもスカートも、黒く長い髪も、まったく雪には濡れていなかった。
まるでずっと前からそこにいたみたいに、あるいは、たったいまそこに現れたように。
彼女の姿をぼくは前にも見たことがあるはずだ。後ろ姿を。泣いた姿を。
救えたはずの君。ぼくが抱える後悔の姿。
ぼくは自分の虚弱さを、脆さを、それらが生み出した人生を呪った。
何度となく繰り返した後悔。その最後かもしれない。
ぼくの眼は、始めから終わりまで、ありえたかもしれない過去と現実を往復し始めた。
やがて疲れ果てたぼくは、いつもの夜のように、瞼を閉じた。