二章
「臨海のショッピングモールで」
「起きなよ。もうすぐだよ」
頭痛がする。声は優しかったけれど、額の奥に響いた。顔をしかめながら目を開いて、声のする方を向いた。
心配げな表情を浮かべたアマヤがぼくの肩を小さく揺らした。
「バス酔いかい? 苦しそうだけど」
時間を確かめようと端末を起動した。同時に一つのアプリケーションが自動で立ち上がる。
視覚被覆用のアプリ『スノウ』は、ぼくの眼に貼り付くレンズ上にぼくが欲した情報を映し出す。
〈2027/02/17/20:02〉
スラッシュで区切られたデジタルの数字は、いまがまだ浅い夜であることを教えてくれた。
雪が世界を白く塗り潰すように、その視界をキャンバスにして利用者が望む情報を映し出す、という意味で『スノウ』という名前は付けられたらしい。いまではほとんどだれもが使用するにまで至っているよくできたアプリケーションだ。
「ここは……?」
「もう海沿いを走ってるから、すぐモールにつくはずだよ」
頭がぼやんとしている。ぼくはどこからきたんだったろうか。
端末が警告音を発する。
ぼくのだけでなく、アマヤのも、バスに乗るほかの乗客たちの端末からも似た音が鳴っている。
〈地震予報 東京都臨海地域 予測震度2〉
視界の上部に、赤地に白字の警告文が表示される。
「また地震みたいだ。東京まで揺れるんだね」
アマヤが言う。
信号待ちで停車中のぼくらのバスが、少しだけ揺れた。
都営バス【海04】は地下鉄に比べるとずいぶん空いていて、立っている乗客はいなかった。
目が覚めて、端末に流れるニュースを見て、ぼくは現実に引き戻された。
災害の続報。情報の大半は変わり映えしない空撮の映像だった。崩れた建物にひび割れた道路、水浸しの街。映し出された場所は、もう「ぼくらの故郷」とは呼べなかった。
昨日の夜、大学の入試を終えた後、宿への帰り道でぼくは災害が起きたことを知った。試験が終わるのを待っていてくれたアマヤと合流してもまだ、現実感は湧かなかった。見知らぬ東京の街で、安いビジネスホテルで、二人で身を震わせながらぼくらはなんとか知っている人たちに連絡を取ろうとした。
結局、故郷にいただれからも返事はなかった。そうして初めて、ああ、これは現実なんだなと思った。
一晩が明けた今日の朝、ようやく故郷の姿をテレビで見ることができた。なぎ倒された建物の数々、そのほとんどは粗く砕けて、ずっと歩き慣れたはずだったあらゆる道をひどく雑に覆い尽くしていた。もしも生き延びた人たちがいたとして、彼らはいったいどこを歩いて故郷を離れたのだろう。
アマヤは静かに涙を流していた。
走り出したバスは、地震とは無関係に車体を揺らしながらぼくらを運ぶ。
つい一時間ほど前に、アマヤの端末に返信があった。早見さんからだった。ぼくは彼女と同じクラスだったけど、あまり話したことはなかった。中学校から同じだというアマヤのほうが彼女とは親しかったと思う。
彼女もぼくたちと同じように、大学入試のために、故郷を離れて東京にいたのだった。遠く離れた田舎の高校で、東京への進学を考えていたのは、つまりいまこのとき東京にいる同級生は、アマヤの他には彼女だけだった。
ぼくらは落ち合うことにした。
早見さんは臨海地域に宿を取っていた。ぼくらは、その近くにあるショッピングモールを待ち合わせ場所に選んだ。
早見さんはクラスメイトたちとは違った雰囲気を持っていて、みんなとは別のものを見ているような、そんな人だった。ぼくが早見さんに興味を持ったのは、彼女がぼくの他にクラスでただ一人、東京の大学を受験すると知ったからだった。
早見さんがなぜ東京に進学すると決めたのかは知らない。
ぼくの場合、深いわけはなかった。ただなんとなく、故郷の近くの大学に行って、故郷の近くで一生を終える自分の姿が想像できなかったからだ。
いや、想像できなかったから、というのは間違っている。東京で過ごす未来だって、別に想像なんてできないままだ。
結局、ぼくにたいした理由なんてなかった。
だからなのかもしれない。早見さんの視線の先には何があるのか。ぼくはそれが知りたかった。
でも、もっと簡単に言えば……。
ぼくは早見さんに憧れていた。ただそれだけだったのかもしれない。
【海04】を降りると、なぜか故郷の風景に似た空気を感じた。都心の近くにしては広々とした街並みで人も少なく、海も近いからだろうか。
「モールはこっちだね」
『スノウ』で表示される地図を見ながらアマヤが言う。ぼくはうなずく。
夜に浮かんで降る雪が、ぼくらの眼に映り続けていた。
曲がり角の先、大きな建物が視界に入る。
一瞬、目がくらんだ。
ショッピングモールの外観は、それ自体あまり派手ではなかった。けれど、外に漏れ出している屋内の明かりは、ふさぎ込んでいたぼくらには充分すぎるほど眩しかった。
「早見さんは、フードコートにいるみたいだ。反対側から直接入れるらしい」
モールの裏側に向かうにつれて、いろんな建物のいろんな明かりに照らされた海が、はっきりと見えてきた。おそろしく冷たい海風のせいか、柵のそばのベンチに人の姿はなく、その寂しげな景色がますます故郷を思い出させてくれる。
「ぼくらはこれから、どうなるんだろうね」
端末を操作しながらアマヤが、独り言のようにつぶやいた。
「きっと、どうにかなるさ。どうにもならなければ、死ぬだけだ」
ぼくもまたつぶやくように言った。
アマヤは小さく笑った。
短い階段を上ると、透明なガラス扉が開いた。
フードコートの騒がしさにぼくたちはたじろいだ。それでも、にぎやかなフロアの隅っこに、早見さんの姿はすぐに見つかった。
文庫本を読む茶色いブレザーの学生服は、大きなフロアのなかでも目立っていた。けれど、それよりもむしろ、彼女の座る席だけが別の世界にあるような、そんな雰囲気がぼくらの目を捉えたのだった。彼女のいる場所は、はるか彼方、と言ってしまえそうなくらい、遠くに感じた。明るく流れるBGMにさらさらと消え入ってしまいそうだった。
一人でいる早見さんは、冷たい目をしているように見える。その目を囲う顔の輪郭もどこか冷ややかで、肩まであるまっすぐとした黒髪に覆われていても、形がはっきりとわかるほどだった。
近づいていくぼくとアマヤに気づいた早見さんは、かすかながら明るい表情を浮かべて、しおりも挟まずに本を閉じた。顔の造りと大きなズレを生む彼女の表情に、ぼくはすぐ心を奪われた。
「ありがとう、来てくれて」
早見さんの声は、少し震えていた。
「こんなことが起きるなんてね」
アマヤが言う。
早見さんはきっと、ついさっきまで泣いていたんだろう。
眼が赤く、潤んでいた。それを隠す余裕も、意味もなかったんだろう。
喧騒と沈黙が続く。どちらも苦手だ。
「早見さんは、これから……どうする?」
ぼくは尋ねた。ひどい質問だ。こんなことを聞いてどうなるんだ。
でも、他に言えることもなかった。
「いまはまだ……どうすればいいかわからない、かな。……ずっとわからないままかもしれないけど」
早見さんはぼくの方を見て、いまにもまた泣き出してしまいそうだった。
「ぜんぶ……わたしたちが過ごしてきた街の、ぜんぶが……なくなってた。わたしたちの学校も、公園のある高台も、夏にはお祭りのある神社も……」
「ぼくらもニュースで見たよ。どのテレビ局もずっと……ずっとその景色だったから」悲しげに応えたアマヤは静かに目を伏せ、席を立った。
「飲み物でも買ってくるよ。何がいい?」
アマヤがぼくの方を見る。
「同じものでいいよ……ありがとう」
そうして彼はテーブルから少し離れたファストフードのブースへと向かっていった。
周囲の話し声が嫌でも耳に入る。災害について話している人もいれば、まったく関係のない話をしている人もいる。でも、遠くから見ればだれもかれも楽しそうに見えた。
「ねえ、聞いてみてもいい?」
早見さんがぼくに尋ねる。ぼくはうなずく。
「たとえばわたしたちがね……きのう東京にいなくて、街に残ったままだったら、どうなってたかな」
「街に残ってたら?」
「きっとわたしたちも、もう生きてなかったんじゃないかなって」
「それはそうだと思うけど……でもぼくらは生きてるよ」
「……いままではね、わたし……ただ、なんとなく生きていただけだった気がする」
それはぼくもそうだ。きっと、だれだってそうだ。
「高校を卒業したら街を出たい、遠くへ行きたいっていうわがままも、特別な理由があったわけじゃないの。本当に、ただ、なんとなくだった。情けないよね」
ぼくも同じだと言いたかった。でも、なぜかその言葉は口にはできなかった。
「わたし、きょうが大学の受験日だったんだけど、行かなかったんだ。ずっとホテルで寝たまま、起き上がりもしなかった。……だから、もう東京にいられる理由はないの。本当にわたしは、どうしたらいいのかな」
涙目にむりやり作ったような彼女の笑顔は、まるででたらめだった。
「こんな悲しい日は……きっと、またあるはずはないから……生き続けようよ」
まったく自分らしくない言葉だった。こんな偽善的なことを言う人間はこれまでずっと軽蔑してきたけど、相手が早見さんとなるだけで言うことが変わるんだから、結局はぼくも嘘つきだった。
「でもわたしは……きょうよりも悲しい日がくるんじゃないかって、思うの」
早見さんが、ぼくの眼を見て言う。
「ひとつだけ、お願いがあるんだ」
彼女は続ける。
ぼくの眼に早見さんが映る。
「わたしのこれからの未来……わたしがこれからどうすればいいか、どんな小さな可能性でもいいから、決めてほしいんだ」
「どうして……?」
「だって……いつか、後悔すらできないときが……きっとくるから」
答えられないぼくを少しだけ見て、早見さんはそれ以上何も言うことはなかった。
早見さんの未来。ぼくにその行方が分かるはずはない。でも早見さんはぼくに尋ねた。ただの気まぐれなんだろうか。
運命の成り行きにまかせたままだとしたら、これから早見さんはどうなるのだろう。早見さんは、もう東京にはいられないと言った。だとしたら故郷に、少なくとも故郷の近くまで帰るのだろうか。そこでどんな人生を過ごす? 所以となる人も街も、もう何もないというのに。だとすれば、東京にいられる理由がないのと同じで、早見さんには故郷にいられる理由もないんじゃないのか。
本当にぼくは無責任だ。生き続けよう、なんて、なんの意味も持たないじゃないか。
アマヤが席に戻ってきた。アマヤはぼくと早見さんの前にホットドリンク用のカップを置いた。
「早見さん、紅茶は嫌いじゃなかった? 少し熱いけど」
「え、うん、大丈夫……。ありがとう……」
アマヤは、気にしないで、というように小さく首を振った。
「外で飲まない? 海も、その向こうの建物の明かりも、すごく綺麗なんだ」
ぼくと早見さんとの間に流れる雰囲気を察してかアマヤが提案をした。
断る理由も特にない。ぼくらはうなずいて外に向かった。
ゆっくりとではあるけれど、雪はまだ降り続けていた。
眩しいモールの明かりが照らしても、夜の闇の全ては晴れず、ただ雪がちらちらと瞬いて見えるだけだった。
ぼくらは階段を降りて、黒く塗りつぶされたような東京湾を広く囲う柵にもたれかかった。冷えた鉄柵は、服の袖越しからも体温を奪っていった。視線を上げる。水平線の上に点在する光をぼくはなんとなく眺めた。
早見さんは俯いていた。
彼女の頬を伝った涙が、暗い海に溶けていった。
「だって……いつか、後悔すらできないときが……きっとくるから」
早見さんのその言葉が、なぜか頭から離れなかった。