二章

  

 

 

二章

 

「施設での生活」

 

 

 

 

 ぼくは、ぼくを起こしてくれた少年とともに、黒服姿の職員に連れていかれた。大部屋を出た後は、広い中庭に面した廊下を歩かされて別の棟に移った。

 案内されたのは殺風景な部屋だった。八畳くらいはあるだろうか。

「入ってください」

 ぼくらはおとなしく指示に従う。室内にある設備は二段ベッドと洗面台、ペットボトルの水が二本置かれた机と椅子が一つずつ、天井からぶら下がる照明が一つ。あとは、かろうじて小さな窓が拵えられていて、そこからわずかに陽光が注いでいた。

「ここがあなたたち二人の部屋です」

 ぼくと少年は目を見合わせた。相部屋か……。

「では、ご自身の左腕を見てください。お二人にそれぞれ、腕時計型の端末をつけさせていただきました。我々からの連絡は全てその端末に届きます」

 ぼくも少年も時計を見る。グレーの筐体、画面は点灯しつづけていて、時間が浮かんでいる。十五時四十分。ようやく確かな情報を得た。

「この施設内ではインターネットに接続されます。ウェブ閲覧などはご自由に。ただ、みなさんの健康管理もこの端末で行なっているのでくれぐれも外さないようにお願いします。充電も不要なタイプですので」

「風呂の時も?」隣の少年が尋ねた。

「完全防水ですのでご心配なく」

「そりゃいいね」少年は笑った。

「本日は夕食の時間になりましたら、通知でご連絡いたしますので、それまで自由に過ごしていただいて結構です。お手洗いはこの部屋の隣にありますのでお好きなときに」

「了解」

 少年は慣れた態度で応対していた。

 

 案内を終えた黒服姿の職員は去り、部屋にはぼくたち二人だけになった。

「上と下、どっちがいい?」

 一瞬なんのことかわからなかった。彼の視線がベッドの方を向いたことで理解した。

「どっちでもいいよ」

「じゃあ上をもらうよ。おれは馬鹿だから高いところが好きなんだ」

 そう言って彼はハシゴを登り、上段ベッドに腰かけた。

「ようやく一息つけたな。遅くなったけど、おれはヨウヘイっていうんだ。おまえは?」

「ソウヤ……」

 あまりに気さくな彼の態度に、少し面食らっていた。

「ソウヤか。その雰囲気だと、まだなにがなんだかって感じだろうな。違うか?」

「……合ってる。その通りだよ。きみはなにか覚えているのか?」

「覚えている、というよりは思い出してきた。少しずつだけどな。キリウとかいう代表が言ってた、おれたちが死にたがりの自殺志願者だってのは、本当だよ。おれは確かに死のうとしてた」

 ヨウヘイは、彼が思い出せた限りの、彼自身のことを話してくれた。ヨウヘイは仙台から来たらしい。駅でバスに乗り込み、配られたペットボトルの飲料を飲み干し、窓の景色を眺めていたのが最後の記憶だと言った。

「いま思えば、あれに睡眠薬かなにかが混ざってたんだろうな。おれたちを大人しくさせて運ぶためにか、この場所を特定させないためにかはわからんが」

「場所を特定させない……なんのために?」

「脱走防止のためだろ。おれたちはきっとこれから、自殺願望が無くなるまで社会から隔離されて暮らさなきゃいけない。そんな生活が嫌で逃げ出そうとするやつってのはどうしたって出てくる。捕まえる側からすりゃ、どこにどう逃げればいいかわかんないやつってのは、万が一のときにも捕まえやすい」

「詳しいね」

「前にも一回、似たようなとこに入れられたことがあってさ。そんときは眠らされたりはしなかったし、うまく逃げられたんだよ」

 嬉々として話すヨウヘイに、やはり違和感が拭えなかった。

「きみは、なぜ死のうと思ったんだ。とてもそんなふうには見えないよ」

「ペットボトルに抗うつ剤でも入ってたのかもな。まあ、大した理由じゃないさ。親ともそりが合わなくて、学校にも居場所がなくて、っていうよくある話だ」

 一瞬、ヨウヘイは悲しげな表情を浮かべたけれど、すぐに明るさを取り戻した。

「それより、おれはここに来るとき、早めに目が覚めたからこの施設の出入口をちゃんと見といたぞ。教えてやるから、そのうち飽きたら一緒に逃げようぜ」

 ヨウヘイは楽しそうに語ってくれた。

 それからぼくとヨウヘイは他愛もない話をつづけた。といっても、ぼくの記憶はおぼろげなままだったから聞くばかりだったけれど。

 ぼくらの会話を止めたのは、左腕に感じた振動だった。ぼくもヨウヘイも同時に感じたそれは、腕時計型端末が通知を受け取った合図だった。

「まもなく夕食の時間です。端末の地図案内に従って食堂に来てください、ってさ。ソウヤは腹減ってる?」

「いや、食欲はないな」

 そう答えながらぼくは、最初に集められた部屋で見かけた少女のことを思い出していた。なぜ彼女はぼくに微笑みかけたんだろう。

「だよな。おれも腹は減ってない」

 食堂に行けばもう一度彼女に会えるかもしれない。そんな気がしてぼくは腰を上げた。

「……とりあえず、行ってみよう」

 ヨウヘイはうなずいてくれた。

 

 


 食堂までは都度、道を確認しながら五分くらい歩いた。

 曲がり角の先に大きな扉。力を入れて押す。

 食堂の中は広かった。学校のプールの倍くらいの幅、五十メートルはあるだろう。そして、長い二列のテーブルがその端から端まで連なっていた。

 少年少女たちは、席の半分くらいを埋めるようにしてまばらに座っていた。ぼくはあの少女を探したけれど、見つからなかった。職員の姿もなかった。

「おい、晩飯は選べるみたいだぞ」

 ヨウヘイはすでにずっと先に進んでいた。彼の後を追う。

「二種類あるな。AとBとでメインが違うみたいだ。肉か野菜か……」

 食堂の隅に、コンビニにあるアイスストッカーのような入れ物が二つ置かれていて、それぞれにヨウヘイが読み上げた通りの二枚の札が貼ってあった。ストッカーには薄茶色のパルプ紙でできた弁当容器が入っていて、容器に巻きつけられた帯に細かい情報が書かれていた。

「肉はチキンのトマト煮、野菜は大豆ハンバーグ……」ヨウヘイが一つ一つ容器を持ち上げて読み上げてくれた。「どっちもいまいちだな……まあ、肉にしとくか」

 辛辣な言葉とともに一つを選んで彼はウォーターサーバーに向かった。ぼくはなんとなく野菜の方を選んだ。あまり食欲がなかったからかもしれない。それとも、いまだに思い出せないぼく自身の好みだったのだろうか。

 ぼくらは他の少年少女たちからわずかに距離をとったところに座った。ぼくとヨウヘイのように会話をしながら食事をしている者もいるが、まだどこかぎこちなさが伝わってくる。ぼくらの後からも何人か食堂に入ってきた。そのたび、つい少女を探して目をやってしまう。

「誰か探してるのか?」ヨウヘイがぼくに尋ねた。

「ああ、いや、探してるってほどではないんだけど」

「なんだよ、知り合いでもいたのか」

 知り合い……。そうか、彼女とぼくは知り合い同士だったのかもしれない。彼女の微笑んだ顔を思い浮かべる。なにかを思い出せそうだ。けどもう一歩のところで、たぐっていた糸が断ち切られるように思考が止まってしまう。

 ヨウヘイはあっという間に全て食べ切ってしまった。

「コーヒーでも飲めりゃいいのにな」そう言って、ぼくを待つ間、彼は追加で二杯の水を飲み干した。嫌味には感じなかったが。

 ぼくが食べ終わるころ、ぼくらの腕の端末にまた通知が届いた。入浴に関する説明だった。十九時から二十一時の間に男女それぞれに用意されている大浴場で入浴ができる、ということだった。着替えもタオルも大浴場に用意されているからそのまま向かえばよさそうだった。

「よし、一番風呂だ。早く行こうぜ」

 食後すぐに入浴する気にはなれなかったけど、ヨウヘイのはしゃいでいる顔を見て断るわけにはいかなかった。

 

  結局、ぼくらが食堂を去るまでに、あの少女は現れなかった。

 浴場は食堂から近く、通路を折れた行き当たりに入り口があった。ヨウヘイの願いどおり、ぼくらが一番乗りのようだった。広い脱衣室には誰もいなかった。

「お、すげえ量のタオルだな」

 タオルのほかに、いまぼくたちが着ている服と同じものが大量に積み上げられている。新しい服はここから取っていけばいいようだ。

 ヨウヘイはさっそく上着を脱いだ。なんとなく見やった彼の上半身には、いくつものアザがあった。ぼくの視線に気づいたヨウヘイは苦笑いした。

「親と合わないっていっただろ。よく叩かれたりしてたんだ。まああんまり気にしないでくれ」

「ごめん」

「謝んなよ。こっちがみじめになるだろ。いいからほら、ソウヤも早く脱げよ」

 ヨウヘイは明るく振る舞った。彼の本心はまだわからないけれど、いまはその態度に救われておこう。

 自分の服をどこに置くか、棚を眺めた。

 ん? 棚の隅、一箇所だけ空じゃないカゴが置かれている。誰か、もう浴場に入っているのか? 

 そのとき、浴場への扉が開いた。ぼくらが開けたわけじゃない。開けられたのは向こう側からだった。

 立っていたのは少女だった。長い黒髪の、裸の少女。そして今日、ここについたばかりのあのとき、ぼくに微笑んだ少女だった。

 彼女の髪から、指先から、滴ったしずくが、脱衣所のマットに落ちた。

 ぼくもヨウヘイも、なにも言えなかった。浴場からの湯気が少しずつ晴れていく。

「ここ、女子浴場」

「え?」ヨウヘイが声を出す。

「地図、見てみなよ。男子はもう一本折れたところのはずだよ。入り口にも書いてあったと思うけど」彼女は落ち着き払ったまま、棚のカゴからバスタオルを取り出し、体を拭きつつ身に纏った。

 ぼくらは端末の地図を拡大した……。本当だ。

「わかったら早く出ていったほうがいいと思うけど。他に誰か来たら大変じゃない?」

「悪い悪い、すぐ出ていく」ヨウヘイが慌てて上着を着直して、その場を後にした。

 ぼくは彼女になにか話しかけたかった。なんで、ぼくに微笑んだのか。大した意味はないのかもしれない。でも……。

「いくぞ、ソウヤ」脱衣所の外からヨウヘイの声。

 少なくともいまはここを離れるべきだろう。彼女に背を向けて、部屋を出た。

「またね、ソウヤくん」

 扉を閉める直前に、彼女の声が聞こえたような気がした。

 


「なんつーか、驚いたな」男子浴場の湯船につかりながらヨウヘイは言った。
 相槌を打ちながらぼくは、彼女が最後にぼくの名前を呼んだことを思い返していた。彼女はやはりぼくを知っているのか。いや、直前にヨウヘイがぼくの名前を呼んでいた。それを聞いて、ただ名前を繰り返しただけかもしれない。また彼女に会えるだろうか。次こそは、ちゃんと話をしてみたい。

 浴場はいつしか賑わい始めていた。充分に広く、それなりに清潔ではあったけれど、知らない同年代に囲まれるのはなんだか落ち着かなかった。

 入浴は早めに切り上げ、ぼくとヨウヘイは自室に戻った。ぼくは二段ベッドの自分の方、下の段に座った。ある程度体は温まり、悪い気分ではなかった。ただ、彼女のことが頭から離れなかった。腕時計を見ると、まもなく二十時に差しかかるころだった。部屋の窓の外はもう真っ暗で、あらためてここが都市から隔離された場所であることを実感した。

「ありがとうな」ヨウヘイの声が上の段から聞こえた。

「どうしたの?」

「久しぶりに楽しかったよ」

「ぼくも同じだ。楽しかった。最近楽しくなかったのかも思い出せてないけど」

 ヨウヘイは笑ってくれた。

「それにしても疲れたな。いきなりわけわかんないとこに連れてこられてさ」

 照れ隠しのように、ヨウヘイは言った。それも同感だった。ベッドの上で寝転がる。気を抜けば眠ってしまいそうだった。まあ、それもいいか。もともと薄暗い部屋の照明がちょうどよかった。

 腕に振動を感じた。またなにかの連絡だろうか。一応確認する。

 ニュースアプリからの通知だった。今日起きたできごとのヘッドラインが紹介されていた。ニュースの記事からは各種SNSへのリンクが用意されていた。それぞれのできごとに対するウェブ上の様々な意見を一覧することができるようだ。

 ただ、ぼくはそんなことよりも、あの少女のことを考えるので精一杯だった。端末のことは放っておいた。

 ソウヤくん。と彼女はぼくの名前を呼んだ。その声はとても澄んでいて、優しく響いた。

 

 ぼくたちの日々はそうやって数日間続いた。治療らしい治療をされることはなかった。日に三度食事をし、日中は施設内の中庭や体育館、図書室を自由に使えた。少しずつではあったけれど、それぞれに人間関係ができ始めていた。もしかするとそれ自体が治療なのかもしれない、そんなふうにも感じ始めていた。

 少女の姿を見かけることはなかった。ぼくは彼女のことを考える時間が増えた。ヨウヘイは、端末を触っている時間が増えた。それでもぼくはそれなりに居心地のいい日々を送っていた。

 

 ちょうど一週間が経った晩。眠っていたはずのぼくはふいに目が覚めた。

 まだ暗い。深い夜中のようだ。喉が渇いている。

 テーブルにはペットボトルの飲料がまだ残っていたはずだ。
 ベッドから起き上がる。照明は消えていた。ヨウヘイが寝る前に消してくれたのだろうか。

 ……照明のあたりになにか違和感があった。
 目元をこする。

 暗闇に慣れてきた眼に映ったのは、ヨウヘイの姿だった。

 天井の照明器具の根元に布が巻きついていた。
 彼はその布に、自分自身の首を巻きつけてぶらさがっていた。


 ぼくは叫び声を上げることもできなかった。

 ただ呆然とヨウヘイの姿を眺めていた。

 テーブルの上に、一枚の紙が置かれているのに気がついて、手にとった。

 ヨウヘイが書いたものだとわかった。

 彼の遺書はとても短かった。

 

〈すまない、いろいろと面倒になってしまった〉

 

 手紙の文字を読んだ瞬間、浮かんだのは、ぼく自身の記憶だった。

 

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