一章

  

 

 

一章

 

「夜行列車に乗って」

 

 

夜行列車の窓からは、あまり変わり映えのしない景色が続いた。
暗闇。薄闇。たまに遠くの工場の明かり。
自分がいまどこにいるのかは『スノウ』が映し出す地図の現在地表示でしかわからない。それが本当かどうかもわからない。
電車は不規則なリズムで揺れる。きっと線路が荒れているせいだ。
座ったままの体はあちこちが痛んで、中途半端に硬い座席は、体を預けきるには少しつらかった。
いつのまにかぼくしかいなくなった車両は、もったいないくらいに明るくて、できるなら灯りを消してしまいたいくらいだった。
どれくらい眠っていないだろう。長い夜だった。数えるだけ虚しい気がした。
車両切り離しのアナウンスが流れる。音量が小さくて聞き取りづらい。知らない国の言葉のように聞こえた。席は替えなくていいということだけはわかった。


喉が渇いている。リュックサックを探ってみる。手が空のペットボトルを簡単に弾いた。
目を強く閉じて、開く。平衡感覚が頼りない。
席を立つ。少しの揺れで体が大きく振れる。思わず息を吐いてしまう。
車両をつなぐデッキに自販機はあっただろうか。切り離される前方の車両へは行けない。シートを手すり代わりに後方へと歩いていく。
自動で開くドア。簡素なデッキにはトイレすらなかった。
掲示された薄い板に『スノウ』を向ける。電車内の地図を浮かび上がらせる。
自販機は、最後尾のデッキに設置されているらしかった。ここから三両分。渡っていくのはあまりにしんどい。時計を表示させる。目的地到着まで、あと一時間近くはあった。

仕方ない。
デッキの奥へ進み、手をかざして扉を開いた。
六号車。ひどく冷房が効いている。車両によって違うのだろうか。身震いする。
ぼんやりとした頭のまま、いつのまにか六号車の端まで来ていた。この車両に誰か人はいただろうか。それにも気づかないまま歩いていたらしい。振り返りたくはなかった。そのまま、奥へ向かった。

最後尾のデッキ。青い自販機は冷たい飲み物しか売っていなかった。季節を考えれば当然だったけれど、冷房で冷えた体を温めたかった。品揃えは炭酸ばかり。ミネラルウォーターは売り切れだった。あまり好みではないサイダーを買う。
デッキは足元以外、全てガラス張りだった。電車が走った跡をはっきりと眺めることができる。後部ライトが照らした場所は一瞬の間に遥か遠くへいってしまう。
距離は時間を可視化する。今見えている景色に比べて、部屋にこもってばかりだったこの数ヶ月は、まるで時の流れが止まったようだった。ぼくの人生よりもずっと速いスピードで、電車は進んでいる。

喉で弾ける泡の音。きっと余計に喉は渇くだろう。それでも、この外の景色を眺めている間だけは、欠けていた何かが満たされる感覚を味わっていたかった。ずっとそうしていたかった。
夜空のなかを走っているんだ。そんなふうに思えた。

見た景色が変わり続ける以上、終わりは必ず存在する。電車はかすかに減速を始め、運転終了を予告するアナウンスが流れた。
サイダーを飲み干し、自分の座席に向かった。
この街に帰るのは半年ぶりだった。
電車が音を立てながら、ゆるやかに止まる。車内から漏れ出た明かりが真っ暗なホームにゆらめいている。
風邪をひいたみたいに頭が痛い。この冷房のせいだろうか。いや、この頭痛はここしばらくずっと続いているはずだった。

くしゃみをしながら、立ち上がり、首を振る。
夜行電車の終着駅。まだ陽は昇っていない。
無人の工場みたいに、機械の点滅だけが世界を動かしているようだった。蝉の声は摩擦の音によく似ていた。
端末で連絡をした。到着したことだけを知らせる簡単なメッセージ。
車両から、ホームに降り立った。

少し離れたベンチに座っている、ただ一人の懐かしい顔。
目が合った。ぼくたちを隔てる土埃の粒は、簡単に弾けていった。
瞼の端がじんわりと熱を帯びている。
ゆっくり歩み寄る。少しずつ。
ぼくたちは、暗いホームで、お互いの顔がはっきり見える距離まで近づいた。

「早見さん、会えてよかった」
喉が渇ききっていた。ちゃんと声を出せただろうか。
「久しぶり、アマヤくん」
懐かしい声。


災害が起きてから、ぼくがこの街を離れてから二年半が経った。
二年半。それだけあれば、きっとなんだって変わる。壊れた街は新しくなる。思い出だって塗り替わる。

もう一度、名前を呼んでみた。  早見さんは微笑んでくれた。

 

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