一章

      

一章

 

「臨海のホテルで」

   

降り積もった雪はわたしの体重でも簡単につぶれてしまって、すぐに溶けてしまう。
頼りない冬の足元。故郷から遠く離れた東京の地面は、いっそうおぼつかない。
わたしが何も知らない世界。
それでも宿泊先のホテルまでの短い道のり、終電間際の地下鉄の空間は所在ないわたしでも少しだけ居心地が良かった。

携帯端末でニュースを観る。ヘッドラインに故郷の名前が並ぶ。
事故の経過が事細かに伝えられている。数字。数字。たまに聞き慣れた地名。
その中にきっと、クラスメイトも、先生も、それにわたしの父と母も含まれているんだ。
仲は良くなかった。悪くもなかった。特別な関係の線。
たとえば父と母は、わたしがこの世界に生まれた理由の存在であることに間違いなかった。
クラスメイトだって、何気ない故郷の人たちだって、わたしがわたしである理由を形作ってくれていたはずだった。

それが、たったの一日で、なくなってしまった。


このわたしのことをわたしだと認識してくれるのは、いまとなっては、アマヤくんと、ナカセくんの二人だけ。
東京の大学を受験したのは、学校でわたしたち三人だけだった。
臨海のショッピングモールで、わたしたちはずっと話を続けた。
答えは出なかった。わたしたちの眼の前にふと現れた問題が何か、それを認識するだけで精一杯だった。

「これから、どうすればいいんだろう」  

わたしたちが見つけた問いは、これだけだった。

今日、結局、受験にも行けなかったわたしは、東京に残る理由がなかった。故郷に戻る理由だってなかった。 
狭いホテルのベッドに倒れ込む。制服の固い生地が肌にぶつかってちょっとだけ痛い。冷たい風にさらされた肌は過敏になった。
『スノウ』を起動する。
わたしの視覚を覆うアプリケーション。低い天井が黒く塗りつぶされていく。少しだけ星を浮かべた。

「わたしは、どうすればいいんだろう」

目元をこする。乾いた涙が張り付いていた。  部屋が揺れる。視界に震源予想の速報が侵入する。全ての通知を切った。
真っ暗な視界、暗い世界。本当に、わたしはたった一人きりみたいだ。
振動の余韻が、重力の感覚を鈍らせる。自分の居場所がわからなくなる。


明滅。星の光じゃない。切ったはずの着信の通知だった。
メッセージが届いている。見覚えのある送信元。
そうだ、わたしのアドレス。

でも、アットマークの後ろ、プロバイダのアドレスが違う。でも、その前の文字列は、たしかにわたしがつけたアドレスに違いなかった。  
本文を開く。見慣れない難しい漢字。それと支離滅裂なカタカナが視界いっぱいに並ぶ。

久しぶりに出会う文字化け。オンラインのサービスから、文字コードの変換にかける。
知らない国の言葉がそうであるように、読めない文字は絵画のように見える。
その絵画が、馴染みある文字に変わるまでにそう時間はかからなかった。

宛名は、わたしの名前だった。  
『早見有希へ  
これから書く言葉は、わたし自身が、あるいはあなた自身が書いた言葉。
だからあなたは信じないといけない。信じる必要があるの。
いまあなたがその目で見ている世界は、間違った世界。分岐して枝分かれした一つの結果。
このわたしの言葉は、可能性が生み出したもの。
でも、あなたの存在も可能性の一つ。それは対称の関係性。
あなたは幼いころ、故郷のあの施設に、あなた自身の世界の見方を捧げた。
それを取り戻しに行かなければならない。

あなたは覚えていないかもしれないけれど、あなたには力があった。
人には誰にだって可能性を夢見る力がある。あのときああしていれば、なんていうあり得た世界を夢想する力。
でも、あなたは可能性のなかを生きるんじゃなくて、それを現実と同じように経験することができる。
施設は事故を起こした。暴走している。だから、いまこのメッセージが届いている。あなたはそこに、戻らないといけない』


書いた文字に人それぞれの癖があるように、書いた言葉にもたしかに癖はある。
このメッセージは、きっと、わたしが書いているように思えた。でも、少しだけ違和感がある。
このわたしじゃない、別のわたしが書いた言葉。そんなふうに感じた。 『スノウ』を閉じて、世界がホテルの部屋に戻った。

起き上がり、窓を開けてみる。転落防止のためなのか、ほんのわずかの角度しか開かない窓。その隙間から、雪が舞い込んできた。また降り始めているみたいだ。

わたしがわたしに書いた言葉の意味は、よくわからなかった。
そうだ、と思った。  


メッセージには応答できるのだろうか。返事は出せるのだろうか。
端末を手に取った。なんて返そうか、すぐには考えつかなかった。このわたしがもう一人のわたしに言えること、聞きたいこと。
強い風が吹く。頬に雪がぶつかる。 『あなたの世界では、みんなは、わたしの故郷はどうなっているの?』
端末に送信を命じる。送信完了のマークはすぐ浮かび上がった。宛先不明の場合は、同時にエラーメッセージが返ってくるはずだった。  


返信も、エラーもないまま、夜が更けていく。アマヤくんとナカセくんは、今ごろ何をしているのかな。
もう眠りについているのかもしれない。ついさっきまで会って話をしていたのに、二人に無性に会いたくなった。


通知。返信のメッセージではなくて、「購入完了通知」だった。
メッセージには電子チケットが添付されていた。
夜行列車の片道チケット。出発地は東京駅、到着地は、わたしの故郷。
メッセージをくれたわたしが、故郷に戻ってきなよと言っているみたいだった。


一日中着ていた制服に、学校指定の飾り気のないコートを羽織る。ホテルを出る。

降り続ける雪はその勢いを強めていた。
日付の変わった東京湾そばの遊歩道。街はまるで凍りついたように静かだった。

東京駅までの道のりを、ただ一人で歩き続けた。

たまに聞こえる酩酊した人の叫び声も、吹雪の音に紛れてすぐに消えた。    


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