三章

 

 

三章

 

「ぼくらの故郷」

 

 

 

 道はかつてのように、あるいはそれ以上に綺麗に造り直されていた。慣れていないアマヤが運転するレンタカーも、いくらか快適だった。

 そのせいだろうか、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。

 目を覚ましたぼくをアマヤがちらりと一瞥する。

「いまは、どのあたり?」椅子に背中を預けたまま、ぼくは尋ねた。

「もうすぐ、着くよ」アマヤは呆れながらも笑っていた。

「ぼくらの故郷だ」

 

 端末を立ち上げる。『スノウ』がぼくの視界に映し出すディスプレイで場所と時刻を確認する。アマヤの言うとおり、もうぼくらの故郷はすぐそこにあるはずだった。

 午前八時すぎ。昨日の夜、東京を出てからもう十時間近くが経っていた。

 

 ほどなくしてぼくらの車は自動車道を降りた。

 ぼくらのほかにはだれもいない信号で、車が停まる。

 アマヤはダッシュボードを開き、少ない荷物をまとめながらぼくに促すかのように、視線を窓の外へとやった。

 素直に従ったぼくの視界には寂しげな街の面影が広がる。

 ひどくくすんで見えた。まだ目が覚めきっていないようだった。

 夜を通して融けきらなかった汚れた雪が「おまえは何をしにきたのだ」と言いたげに路上に横たわっている。

 一般道も災害の跡を感じさせないくらい整ってはいたけれど、すぐ脇の崩れた民家やゴミの山が不釣り合いな景色を生み出していた。

 

「早見さん、返信はないままだ」

 メッセージがあれば『スノウ』が知らせてくれるはずだった。それでも端末を開き、その画面を見ながらアマヤが言った。

「……行こう」

 

 もうずっと前のことになる。いまとなっては大学生活も二年目を終えようとしているぼくたちがまだ進学する前。世界にとって、社会にとって、大切な何かを作っていた施設が、ぼくたちの故郷にあった。

 いつからか科学技術はぼくたちの理解の及ばないところにまで到達してしまった。

 十年ほど前、海外のとある国で新しい物質が発見された。

『ニクス』と名付けられたその物質は、とても小さな、これまでにない新しい素粒子であるとのことだった。専門的な知識を噛み砕いたウェブのニュースやテレビのワイドショーでは、「目には見えないけれど、わたしたちが何かを考え、想像し、逡巡し、選択する際に、決して欠かせないもの」と紹介されていた。

 わかりやすく社会を良くするものではない、ということだけが理解され、すぐに話題には上らなくなった。それでも時が経つにつれて『ニクス』を応用した技術はいくつも生み出されていった。視覚被覆用アプリケーション『スノウ』もそのひとつだ。

 そしていまぼくたちが目指している施設こそ『ニクス』を作り出すための場所だった。

 その施設が大きな事故を起こしてしまった。ぼくとアマヤがちょうど、東京で行われる大学の入学試験を受けるために、故郷を離れていたときだった。そのときも今日みたいな寒い、冬だったことを憶えている。

 

 災害が起きた日の次の夜、早見さんとぼくたちは、東京の臨海地域にあるショッピングモールで集まった。

 ぼくは不思議な気持ちになった。これまで教室で何度となく顔を合わせていながらも、話しかけることすらできなかった早見さんが、一緒に世界に取り残されたかけがえのない存在であるように思えたからだった。

 災害のあと、ぼくとアマヤは、被災地域出身者向けの給付金を頼りに、東京の大学に進学することにした。

 大学を受験することができなかった早見さんは、故郷に帰ることに決めた。

 早見さんが東京を離れてから、ぼくらは一度も会うことはなかった。

 それでも、連絡だけは取り続けた。メッセージが往復する頻度は少しずつ減っていったけれど、確かに続いていた。ついこの間までは。

 

 三人で集まりたい、と提案をしたのは早見さんだった。「全部忘れてしまいそうだから」と彼女は言った。ぼくもアマヤも承諾し、ぼくらは故郷で会う約束を結んだ。災害からちょうど二年が経つ日、それが約束の日だった。災害を起こしたという施設を見に行きたい。それも早見さんの望みだった。

 けれど、その後、早見さんからの連絡が途絶えた。ぼくらのメッセージには返事がなくなり、かけた電話にも応答はなかった。二週間が経ち、約束の日の前日になっても状況は変わらなかった。それでもぼくはアマヤに「故郷に帰ろう」と言った。早見さんの身に何かがあったのかもしれない。いや、ただ端末が壊れただけかもしれない。それともぼくたちとのやりとりに嫌気がさしただけなのかもしれない。

 でも、いずれにしても、ずっと抱えていたあの冬の後悔が、あのとき早見さんに何も言えなかった後悔が、ぼくを故郷へと向かわせた。

 ぼくの勝手な思い込みかもしれない。早見さんからの連絡がなくなって初めて、ようやくこう思えるようになったのも馬鹿げた話だ。

 でも、やっぱり、ぼくは早見さんを救いたかった。

 ぼくとアマヤは故郷に向かった。二人で、事故を起こした施設の跡地を目指すことにした。

 

 施設が事故を起こした直接の原因はなんだっただろうか。それはいまでもわからない。災害の影響だったか、それとも災害に乗じたテロ組織かなにかの犯行だったか。事故当時にはあらゆる情報が錯綜して、いろいろなことが起きて、その絡まった糸はいまもまだ解けていない。

『ニクス』は原子よりもはるかに小さく、それゆえ気づかないうちに人にも様々な害をなしうるということは、災害が起きたあとにネットで知った。その事をオカルトだと罵る意見も多かった。一方、症例としては少ないが、事故以前にも施設の近くに住んでいた人のなかに「現実と想像の区別がつかなくなる」人が現れたことがあるそうだ。『ニクス』はその小ささゆえ物理的な防護はきわめて難しく、完全に遮断することはできないとされていた。『ニクス』を作る施設が都市ではなく地方にばかり作られていたのはそのためだった。しかし、発症者たちに関してはいくつかの報告書で「施設による影響だと断定はできない」とされていた。症状が進むと「ありえたはずの過去や現在を想像できなくなる」という現象も見られたそうだが、「それって後悔がなくなるってことでしょ? いいことじゃん」という匿名のコメントだけがぼくの記憶に残っている。

 結局のところ、インターネットを調べてみても本当のことは、というより、そこで語られていることが本当なのかどうかは、決してわからなかった。

 

 

「この先は車では行けないみたいだ」

 頭上の青い看板はまっすぐな矢印でぼくらの故郷の名を指し示していたけれど、道路をふさぐがれきは車での侵入を許してはくれなかった。

 

 アマヤが運転席を降りる。

 頭ははっきりしないまま、それでも取り残されないように立ち上がり、彼の後を追った。

 喉が渇いている。なんでもいいから口にしたかった。

 外へ出たぼくの全身を刺すように、冷たい風が吹いた。空気を飲み込むにも体力が必要だった。

「故郷の景色を描いたことはなかったな。一度くらい、描いておけばよかった」

 アマヤはとても上手に絵を描く。ぼくは彼の絵が好きだった。

 災害がなければ、彼は故郷から近い大学の芸術学部に進学するはずだった。いまの大学では経済を学んでいると聞いたけれど、それ以上のことは話もしなかった。

 

 それにしても、唾が重たい。

 アマヤが、察したように自身の鞄からペットボトルを取り出して渡してくれた。

 容器の飲み口にそのまま口をつけていいか悩んだ。アマヤは気にするほうだったか。

「どこかへ寄ろうか。君の家にでも行ってみるかい?」 

 迷子に家の場所を聞くように丁寧に、アマヤが言った。

 渇きが満たされていくにつれて、少しずつ意識がはっきりとしてくる。

「いや、どうせ跡形もないだろうな。……このまま向かおう」

「了解」アマヤは少し悲しそうに、それでもまた、笑ってくれた。

 

 いま二人で歩いている街の風景は、かつてホテルのテレビで観てから眼に焼き付いた凄惨な姿に比べると、ずいぶんまともになったように見える。それでもやっぱりこの街はもうぼくらの故郷だとは呼べそうになかった。アマヤもきっとそう感じているのだと思う。

 拭えない違和感に目を合わせないようにしながら、ぼくたちは歩き続けた。

 

『スノウ』のナビはぼくらのたどった道を反映しながら、最短のルートを表示し続ける。

 災害のあとに建設されたロードサイドの休憩所を見つけた。ぐるりと包むように、環状道路が敷かれている。

 人はだれもいなかった。

 流れる景色が物語るぼくらの拙い思い出は、降り積もった雪に紛れて消えていった。

 

 ぼくらはしばらく歩いて、無骨なガードレールで塞がれた道に行き当たった。塗料は剥げ落ち、さびた鉄鋼の姿が露わになっていた。括りつけられた看板の中央には〈立入禁止〉とある。隅には、立ち入った場合に罰せられる根拠となる法律について長々と付記されていた。

 すでに辺りには背の高い植物が生い茂り、かつて人の暮らしがあったとは思えないほど鬱々としていた。足元はぬかるんでいて、ぼくとアマヤ、二人の足跡がはっきりと残るほどだった。

 ちょうど、どこか遠くでサイレンが鳴った。

「九時の合図かな……とても朝には見えないね」アマヤが寂しげに言う。

 風の形がはっきりとわかるくらいに、草や枝が揺れ動いている。 

 

 ぼくたちは、ガードレールを乗り越えた。

 押さえた手についたさびは簡単には払えなかった。

 人の気配はなくとも、立ち入っては行けない場所であることは変わらない。警戒しながらゆっくりと歩みを進める。

 早見さんは、いったいどうしているのだろうか。連絡が取れなくなったそのわけを考えずにはいられなかった。

 

 無言で歩くぼくらが何度か道を曲がり終えると、突然、奇妙なものが遠く視界を覆った。

 

 灰色。材質は石、あるいはコンクリートだろうか。

 それは緩やかなドーム状になっていて、なによりも、巨大だった。

 まだ距離はあるが、圧倒的な存在感は、周囲には他に何も存在していないかのように、一帯をふさいでいた。

 棺のようにも見えた。

 アマヤは言葉を失っていた。

 

 起動音がした。

 ぼくの眼が、勝手にピントを合わせ始める。

 端末が警告音を発し始めた。網膜上を違和感が走る。

 

『スノウ』が立ち上がった。

 そして、淡い閃光とともに、目の前に白い粒が浮かび上がった。

 まるで舞い上がる雨粒が凍りつくように、ぼくらの視界を埋めていった。

 やがて開けた世界は、雪が染み込んだみたいにうっすらと白く、曇ったガラス越しみたいにかすんで見えた。

 蛍火のような、温かい光がぼくの目の端をかすめた。

 もやのなかを進んでいく光の行く末を追った。

 すらりとしたふたつの腕が見えた。

 奥に向かっているようだ。奇妙で巨大な棺の方へ。

 黒い髪が見える。コートとスカート。見憶えのある後ろ姿だった。

 まさか……。

 おぼつかない足をゆっくりと運ぶ。 

 声を聞きたい。

 近づきながら手を伸ばす。

 

「うわっ!」

 アマヤの叫び声。

 ぼくは思わず振り返った。

「あなたたちは……」

 アマヤがうわ言のようにつぶやく。何かに眼を奪われたように、虚ろな表情をしていた。

「どうした、アマヤ。だれのことだ」

「見えないのかい……? じゃあこの人たちは……」

 アマヤが指をさした方には何もなかった。

「これは……」 

 アマヤは一度強くまばたきをした。

 それでも瞼を開いた顔にはより強い戸惑いが浮かぶだけだった。

「ぼくの『スノウ』が勝手に起動している……」

「『スノウ』……何が映ってるんだ」

「ぼくの眼には、ぼくらの故郷の人たちが、映っている……」

 アマヤが苦しげに言う。

「故郷の……?」

「そう……学校のみんな、絵画教室の先生、父さんや母さんまで……。ああ……景色も変わっていく……」

 アマヤの眼から涙がこぼれ落ちた。

「いったいなんなんだ! ぼくらが失った全部……それが、いまぼくの眼に映っている……まるで本物みたいに……」

 これほどまでに取り乱すアマヤは初めて見た。

「……君は、どうなんだ。君にはいま何も見えていないのか」

 視線を先に戻すと、ついさっき眼に映った姿は遠くに行ってしまって、もう見えなくなっていた。あれは、幻覚だったのか。

「ぼくは、何も見えていない」

 自分の声が震えているのを感じる。

 

「ここを離れよう。いますぐに」

 アマヤのかすれるような声。

 雪が肩にぶつかった。いつの間にか降り始めていたようだった。

 自身の眼を押さえながら、言葉を押し出すように吐き出したアマヤは、苦しそうに深い呼吸を繰り返した。

「……待っていてくれ。少しだけ、確かめたいんだ」

 ぼくはアマヤの言葉に従わなかった。

 歩みを早めて、見たはずの後ろ姿が向かっていた方へと進んでいく。

 

 林を抜け、辺りが開けた。

 棺のような建物の全貌がやっと理解できた。あまりに大きい。視界のすべてを覆うようだった。

 建物のすぐそば、固そうな壁に手を触れる人の形が見えた。 

 やっぱり、その姿は……。

「早見さ……」

 

「わたしはっ!」

 

 近づこうとするぼくを静止するような大きな声。

「幸せに、なりたかった……この世界で……」

 振り向きもせず彼女は泣きそうな声でそうつぶやいた。

 

 ぼくはたった一度だけまばたいた。

 彼女の姿が消えていた。

 建物のなかに?

 いや、どこにも入口のようなものはなかった。

 ぼくは彼女を見失った。

 本当にそこにいたかどうかもわからないままに。

 

 どれくらいの時間、ぼくは立ち尽くしていたのだろうか。

 体が冷えたことを自覚したころには、着ている服はもうびしょ濡れだった。

 ぼくはアマヤのもとに戻った。

 手で眼を覆い隠し、頭を抱え、彼は座り込んでいた。 

 

 帰路、雪は弱まる気配を見せず、少しずつ足元を白く塗り変え始めていた。

 アマヤの呼吸は荒いままで、急に風邪でもひいたみたいに、その険しい表情が解かれることはなかった。

 何かがずれていく感覚がした。ほんの一瞬だけ眼が捉えたあの後ろ姿が頭のなかであいまいなまま繰り返される。

 結局、ぼくはこの街に何をしにきたんだろうか。 

 

 元の場所に戻ったころには、車の屋根にも雪が積もっていた。

 払い落とす手が感じる冷たさはまるで他人事のように痛々しかった。

 車に乗り込むこともできず、背中を預けて座り込むアマヤに、かける言葉は見当たらなかった。

 

 ふと、この世界は間違っているのかもしれない、そんな気がした。

 

 

 

 
 

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